航空機

解説:航空機の歴史

船舶

解説:船舶の歴史

自動車

解説:自動車の歴史

鉄道

解説:鉄道の歴史

風景

解説:アメリカの風景

人物

解説:アメリカ合衆国と人々の100年

動物

解説:アメリカの動物

日本の百年

解説:日本の100年

解説:ジェンテ・ジャパンコレクション

 

 

航空機の歴史

■ アメリカのライト兄弟は、1903年12月17日に飛行機(動力を備えた重航空機)「ライトフライヤー号」による世界初の本格的な有人飛行を行った。ライト兄弟以後、第一次世界大戦(1914年(大正3年)から1918年(大正7年))ころまでは、飛行機はより速くより高くより遠くへ飛べるよう改良が続けられた。


飛行するライトフライヤー

また陸上の飛行場だけでなく、海面や軍艦の甲板からも発進できるようになっていった。この時代の機体構造はフライヤー号と同じく木製の骨組に羽布張りが主体だった。また操縦桿による操縦方法も現在と同じ方式に統一されていった。 第一次世界大戦では、飛行機は最初偵察機として使用された。当初敵の偵察機と遭遇しても「同じパイロット仲間同志」としてハンカチを振り合ったという逸話があるが、すぐにピストルを撃ち合うようになり、武器自体も機関銃へと進化して戦闘機が生まれた。また敵地上空まで飛んでいって爆弾を落とす爆撃機も誕生した。 イギリスは世界最初の雷撃機を製造した。


フォッカー E.III

一部の機体では骨組みや外板に金属が用いられるようになった。飛行機は第一次世界大戦で大きく発展し、信頼性も向上した。そこで戦後は飛行機による本格的な輸送が開始された。 最初は上流階級による旅行のための旅客機や郵便運送に利用されたが、機体が大型化するにつれて一般の金持ち階級も利用できるようになっていった。

大洋を渡る路線や長距離を飛ぶ大型機としては、離着陸や万が一の際に広大な海面が利用できる飛行艇が充当された。 骨組や外板全てをアルミニウム合金(ジュラルミンなど)で製作した全金属製の機体が開発されたが、鋼管骨組に羽布張り等の構造を持つ機体も残っていた。


チャイナクリッパー

 
ダグラス DC-3

また1930年代には高揚力装置(フラップ)が実用化され離着陸特性が改善された。 第二次世界大戦で飛行機は戦闘の主役となった。陸上・海上を問わず制空権を握った側が戦いに勝利した。ドイツは、ポーランドやフランスに侵攻する際、空軍戦闘機による制空権の元での多数の爆撃機による攻撃がこの侵攻の速さを支えた。

しかし、イギリス侵攻においては、ドイツ戦闘機は本国上空周辺での戦闘しか想定しておらず、爆撃機に対し充分な援護ができなかった。その結果ドイツ爆撃隊はイギリス防空戦闘機によって重大な損害を受け、イギリスへの侵攻は断念された。

大西洋では戦争初期に大いに暴れまわったドイツの潜水艦(Uボート)であったが、1943年以後アメリカで大量生産された護衛空母に搭載された飛行機による対潜作戦が始まると形勢は全く逆転した。戦争末期ドイツ本土は昼間はアメリカのB-17、夜間はイギリスのランカスターという4発重爆撃機コンビの攻撃を受けて荒廃していった。

これらの攻撃に対しドイツは高速のジェット戦闘機やレーダーを装備した夜間戦闘機を開発して対抗したが、米英の物量の前に敗北した。なお世界初のジェット機はドイツのエルンスト・ハインケルが完成させ1939年8月に初飛行したHe 178だが、この機体は実用化されなかった。 アジアでは日中戦争が勃発していた。

大陸奥地へ退いた国民党軍を攻撃するため、航続距離の長い日本海軍の陸上攻撃機が重慶などの都市を爆撃した件は戦略爆撃の始まりと言われている。この爆撃でも中国軍戦闘機による被害が大きく、爆撃機のみの侵攻が危険であることが明らかになった。 太平洋戦争は1941年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃から始まった。

この攻撃は戦艦2隻の沈没、4隻の大破着底という成果をあげ、海上での航空優位が明らかとなった。この被害を受け、アメリカ太平洋艦隊は、その後航空母艦を主力とする戦法に切り替えた。 戦争が長引くにつれアメリカの生産力が生む大量の航空機が太平洋を制し、日本の海上戦力を壊滅させ輸送能力を奪った。

 
零式艦上戦闘機

日本が占領していた島々も補給が途絶え戦力を喪失し、順次アメリカに奪われていった。 アメリカはこれらの島々に飛行場を整備し、大型爆撃機B-29を発進させ戦略爆撃を行い日本の継戦能力を奪った。B-29は最後に実験的に広島と長崎に原子爆弾を投下し、日本は敗戦を迎える。

第二次世界大戦中、陸上輸送機による長距離・高速輸送が定着し、飛行艇はその存在意義を低下させていった。この時代に作られた機体は殆どが全金属製であったが、イギリスやソ連では木製機も登場した。

機体の高速化に伴い離着陸性能改善のための高揚力装置(フラップ)は不可欠となったが、一部の機体ではフラップを空中での運動性改善にも応用した。ライト兄弟以来のガソリンエンジンは排気タービンの使用により殆ど完成域に達した。また高空を飛ぶ大型機には与圧室が採用されるようになった。(以上 Wikipediaより引用(一部改編))

 
ボーイング B-17

 

船舶の歴史

■ 「船」とは、人や物をのせて水上を渡航(移動)する目的で作られた乗り物の総称である。 基本的には海、湖、川などの水上を移動する乗り物を指しているが、広い意味では水中を移動する潜水艇や潜水艦も含まれる。 太古の昔より、河川や海洋を渡る際や釣りなどの漁業を行うために丸木舟などが用いられていた。

スコットランドで150例、日本で200例などの先史時代の丸木舟の発見例があり、その他獣皮を張った船体に防水を施したシーカヤックに類するものなども存在したと考えられている。

 
エジプト新王国時代の壁画に描かれた横帆の船

中世において、ヨーロッパでは、それまでのガレー船に加えて、ヴァイキング船の横帆を取り入れた「キャラック船」が生み出された。また、16世紀までにはキャラック船を元にガレオン船が登場し、大航海時代になった。ガレー船は18世紀末まで地中海で、北欧のバルト海では19世紀初頭まで使用された。

 
ガレー船


キャラック船(復元)

1807年にロバート・フルトンが作った外輪蒸汽船がニューヨークとオリバニー間で運航を開始した後は、多数の帆船に蒸気機関が搭載され、また、帆船も港での操船は蒸気エンジンを備えたタグボートに任せることができるようになったため、外洋航行に最適化した高速大型帆船が作られ、「クリッパー」と呼ばれる高速帆船も登場した。


日本にやってきた外輪船 黒船こと、サスケハナ号

1858年に英国人アイザム・K・ブルーネルが発明したスクリュープロペラを備えた外洋定期客船「グレート・ブリテン」が作られた。英海軍が海上公開実験によってその性能を確認し、軍艦の標準としたため、各国海軍もそれに倣った。

 
スクリュー船 グレート・イースタン号、1866年

海底ケーブル網が充実した1860年代から、軍艦だけでなく商船でも、航行スケジュールが確実な蒸気船が帆船を駆逐するようになっていった。スエズ運河は開通してから当分の間、通行可能な船のサイズに制限があったり、運賃が高かったりして、商船がしばしば利用を敬遠した。 この後、多数の蒸気船が登場して徐々に海運の主役となった。

1892年のディーゼルエンジンの登場によって多くの大型船舶が内燃機関を備えるようになった。また、19世紀末、チャールズ・アルジャーノン・パーソンズによって蒸気タービンが開発された。20世紀初頭まではレシプロ式の蒸気機関を搭載した大型船が建造されてきたが、第一次大戦後は次第にこのタービン式が主流となる。

 
蒸気タービンを利用したタイタニック号

蒸気タービンはレシプロ式蒸気機関に比べ振動・騒音が少なくて熱効率が高いという特徴がある。レシプロ式では3段膨張式があったが、タービン式であれば蒸気の膨張を最大限に利用できるので優れており、次第に世界の主流となっていった。またこの時期から、燃料も石炭からより燃焼効率の高い重油へと移行していった。

なお、帆船は今日でも練習船やヨットなどとして用いられているが、多くがエンジンを備えた汽船である。(Wikipediaより引用(一部改編))

自動車の歴史


■ 最初の自動車は蒸気機関で動く蒸気自動車で、1769年にフランス陸軍の技術大尉ニコラ=ジョゼフ・キュニョーが製作したキュニョーの砲車?であると言われている。この自動車は前輪荷重が重すぎて旋回が困難だったため、時速約3キロしか出なかったにもかかわらず、パリ市内を試運転中に塀に衝突して自動車事故の第一号となった。

 
キュニョーの砲車?のレプリカ

イギリスでは1827年ごろから定期バスとして都市部および、都市間で広く用いられ、1860年ごろにはフランスでも用いられるようになった。1885年に、フランスのレオン・セルボレが開発し1887年に自動車に搭載したフラッシュ・ボイラーにより蒸気自動車は2分でスタートできるまでに短縮された。

1900年ごろにはアメリカ合衆国で、石炭の代わりに石油を使った蒸気自動車が作られ、さらに普及していった。この頃は蒸気自動車の方がガソリン自動車よりも騒音が少なく運転が容易だった。アメリカ合衆国では1920年代後半まで蒸気自動車が販売されていた。 1865年にイギリスで赤旗法が施行された。

 

初期のガソリン自動車のマルクスカー 1888年

当時普及しはじめた蒸気自動車は、道路を傷め馬を驚かすと敵対視されており、住民の圧力によってこれを規制する「赤旗法」が成立した。この法律により、蒸気自動車は郊外では時速4マイル(6.4km/h)、市内では時速2マイル(3.2km/h)に速度を制限された。 人や動物に予告するために、赤い旗を持った歩行者が先導しなければならなくなった。

その結果、イギリスでの蒸気自動車の製造・開発は、この赤旗法が廃止される1896年まで停滞することになり、それに続くガソリン自動車の開発においても、ドイツやフランスが先行する事になる。 1870年、ユダヤ系オーストリア人のジークフリート・マルクスによって初のガソリン自動車「第一マルクスカー」が発明された。

1876年、ドイツ人のニコラウス・オットーがガソリンで動作する内燃機関(ガソリンエンジン)をつくると、ゴットリープ・ダイムラーがこれを改良して二輪車や馬車に取り付け、走行試験を行った。 1885年にダイムラーによる特許が出されている。

1885年、ドイツのカール・ベンツは、ダイムラーとは別にエンジンを改良して、車体から設計した3輪自動車をつくった。ベンツ夫人はこの自動車を独力で運転し、製造者以外でも訓練さえすれば運転できる乗り物であることを証明した。 ベンツは最初の自動車販売店を作り、生産した自動車を数百台販売した。

 

初期のガソリン自動車、1885年型ベンツ 3輪

また、ダイムラーも自動車会社を興した。現在、ガソリン式自動車の発明者はダイムラーとベンツの両者とされることが多い。 初期の自動車は手作りであるため非常に高価なものであり、貴族や富裕層だけが所有できるものであった。そして彼らは自分たちが持っている自動車で競走をすることを考えた。

このころに行われた初期の自動車レースで活躍したのが、今日も世界最高峰の自動車レースであるフォーミュラ1(F1)などで活躍するルノーである。 このころはまだガソリン自動車だけでなく蒸気自動車や電気自動車も相当数走っており、どの自動車が主流ということもなかったが、1897年のフランスでの自動車レースでガソリン自動車が蒸気自動車に勝利した。

また、1901年にはアメリカのテキサス州で油田が発見されてガソリンの供給が安定する一方、電気自動車や蒸気自動車は構造上の問題でガソリン自動車を越えることができず、20世紀初頭には急速に衰退していった。 1908年には、フォードがフォード・T型を発売した。フォードは、流れ作業による大量生産方式を採用し自動車の価格を引き下げることに成功した。

 
フォード・T型 1908年発売

これにより裕福層の所有物であった自動車を、大衆が所有することが可能となり自動車産業が大きく発展するさきがけとなった。 一方、ヨーロッパでは1910年ごろに、大衆の自動車に対する欲求を満たすように、二輪車の部品や技術を用いて製造された小型軽量車、いわゆる「サイクルカー」が普及していった。

1922年に、フォードと同様の生産方法を用いたシトロエン・タイプC(「5CV」の名で親しまれる)やオースチン・セブンなどの小型大衆車が発売された。 これにより、本格的に自動車が普及していく事になり、これに伴いサイクルカーは姿を消していくことになる。

 

シトロエン・タイプC

上記のT型フォードなどの大衆車の普及によって、一般市民が自動車を所有することが可能となり、自家用自動車(自家用車)が普及すると、それに伴って自動車を中心とする社会が形成されるようになった。 自動車が生活必需品となっていく、いわゆるモータリゼーションが起きた。

世界で初めてモータリゼーションが起こったのは1920年代のアメリカ合衆国であり、次いで西ヨーロッパ諸国においても起こり、日本でも1970年ごろに本格的なモータリゼーションがはじまった。

個人用自動車の普及は、鉄道や船といった公共交通機関に頼っていた時代に比べて利用者に圧倒的に高い自由度をもたらし、個人の行動半径を大きく拡大させることとなっていった。(Wikipediaより引用(一部改編))

鉄道の歴史


■ 馬車道上の切石を用いた軌道を牽引される最初の車両は、少なくとも2000年前にギリシャ、マルタとローマ帝国の一部に登場している。16世紀半ば レールが使用されはじめたが、鉄製ではなく、まだ木製であった。

その後、17世紀にイギリスの炭鉱で車の轍(わだち)のあとに丸太を設置して、その上に車を走らせるようになり、これが「鉄道」の始まりと思われる。また、ドイツの鉱山でも木製レールが使用され、ポイント(分岐)も備えていた。

18世紀後半、産業革命でイギリスのエンジニアであるジェームズ・ワットにより蒸気機関の動力が発明され、同時に鉄製レールが使用されはじめる。鉱山などで鉄製のレールを使った運搬が行われた。馬や人の力で運搬するようになった。

ワットの蒸気機関 

19世紀初頭 蒸気機関を用いた鉄道の研究・開発がはじまる。トレビシックが1804年に鉄製レール上を走る蒸気機関車の走行に成功したが、この頃は馬車鉄道用のもろい鋳鉄レールを使用していたため線路が折れやすく、本格的な実用化までには至らなかった。

 1804年ごろ製作されたトレビシックの14号蒸気機関

その後、ナポレオン戦争による軍馬の需要の増加で馬の価格が高騰し、運搬の代替手段としてレールと蒸気機関車を用いた鉄道の研究が一段と進んだ。1812年 イギリスのミドルトン鉄道がラック式鉄道を初めて採用し、山岳鉄道という新しい分野が切り開かれた。また。 1821年にギリスのヘンリー・ロランソン・パーマーがモノレールを考案した。

 

試運転中の1900年に雑誌に描かれた「空中鉄道」ことモノレール

1825年、世界初の商用鉄道が現れる。イギリスのストックトン・ダーリントン間を結ぶ鉄道が開業したのが世界初の商用鉄道とされている。以後、欧米各地で鉄道の建設が活発になり、1827年にアメリカ、1832年頃にフランス、1835年にドイツで鉄道が開業した。また、当時、イギリスの植民地化が進んでいたインドでも1853年に鉄道が開業した。

1837年 イギリスのロバート・デビッドソンにより電気機関車が製作され、鉄道界に大きな旋風を巻き起こした。最初の電気機関車といわれているのは、スコットランドのロバート・デビッドソンが1837年、アバディーンで製作したもので、電源にはガルバニ電池を使用していた。

初期のころの電気機関車 GE(アメリカ)製 1890年ころ

以後、鉄道の保安技術も飛躍的に改良が進み、1841年にはイギリスで腕木信号機が考案されている。なお、1863年、イギリス、ロンドンで地下鉄が開業したが、これは蒸気機関車を用いた地下鉄だった。

1879年 ドイツのシーメンス社が本格的な電気機関車を試作・公開。ベルリン博覧会で公開運転を行い、2年後の1881年、ベルリンで世界初の電車の営業運転を開始した。

その後、ヨーロッパとアメリカで改良が進み、鉄道網が広がるにつれ、都市部にもトンネルが建設されるようになり、電気機関車の開発が促進された。 蒸気機関車の出す有害な煙が問題となり、都市部の各自治体で蒸気機関車の使用を制限する動きが広まりつつあったこともあり、電気機関車の普及に拍車をかけた。

1912年 ドイツでディーゼル機関車が製作された。これはディーゼル=ズルツァー=クローゼ式熱機関車と呼ばれ、ディーゼルエンジンと動輪軸を直結して駆動させる方式であったが使い物にならず、エンジン自体も凄まじい轟音を発した事から苦情も大きく、1914年に廃車され失敗に終わった。

1924年にはロシア鉄道向けに大型機のGe-1形が製造された。これは現在サンクトペテルブルクの鉄道博物館で静態保存されており、現存する最古のディーゼル機関車となっている。

ロシア鉄道Ge-1型

以後、鉄道車両の主流は電気機関車とこのディーゼル機関車となり、現在に至っている。

電気機関車ははディーゼル機関車や蒸気機関車のように燃料を積載する必要はなく、その余裕を車体寸法と重量の低減や、出力の増大に充てることができる。 また、運転時に煤煙や排出ガスを出すこともないため、車内環境、沿線環境が改善される。

一方、蓄電池式電気機関車という例外があるものの、電化路線でしか運用できず、電化設備の維持のため大きなコストがかかる。 その点、ディーゼル機関車は非電化区間でも使うことができ、現在でも客車、貨物、甲種輸送などで幅広く活躍している。

日本でもJR貨物からは貨物駅周辺の環境に配慮し入換用ハイブリッド型ディーゼル機関車が試験導入されるなど、短距離けん引でありながら重要な役割をもつものもある。 (Wikipediaより引用(一部改編))

アメリカの風景


■ アメリカ合衆国は本土の48州と、飛び州のアラスカとハワイの2州、連邦直属の首都ワシントンD.C.から構成される。さらに、海外領土としてプエルトリコ、アメリカ領サモア、グアム、ヴァージン諸島などがある。 国土面積は、およそ930?960万 km2とされ、日本(37.8万 km2)の約25倍の規模である。

その他の大国と比較すると、ロシア、カナダに次ぐ面積であり、中華人民共和国とは拮抗している。すなわち世界で第3位もしくは第4位の面積を有するということになる。

 

アメリカ合衆国の東部は地勢的に多様である。テキサス州とメキシコの国境からフロリダ半島を含みニューヨーク市まで、メキシコ湾と大西洋の海岸には広く平らな海岸平原がある。そこから内陸にはうねりのある丘陵部と温帯樹林がある。

アパラチア山脈はカナダ及びアメリカ合衆国東北部に位置し、北東から南西方向に全長約2,600kmにわたって延びる丘陵・山脈。低い山の並びであり、東部の海岸と五大湖地方やミシシッピ川盆地とを分けている。

地質時代の最初期に現在のアパラチア山系が形成される契機となった地殻変動が起こり、これによって北東から南西の方向に斜めに造山された。この山系はかなり昔に地殻変動のピークを迎えており、その後徐々に起伏の少ないなだらかな地形になってきた。

現在の高度は初期の山系にそって隆起が繰り返され、また山地として最も浸食されにくい岩石が残ったことによって生まれたものである。大西洋岸にはアパラチア山脈に沿って斜めの構造線が走る。さらに南東部では隆起が起こり、ニューヨークなど北部地域からフロリダにかけての海岸線の発達をもたらした。

アパラチア山脈

アパラチア山脈の西にある五大湖は合衆国の北中部にあり、そのうち4つはカナダとの国境になっている。南東部には亜熱帯雨林があり、メキシコ湾岸の特にフロリダ州ではマングローブ湿地がある。アパラチア山脈の西にはミシシッピ川盆地があり、その東側にオハイオ川とテネシー川の2つの大きな支流がある。

オハイオ川とテネシー川の流域および中西部は大半がうねりのある丘陵と生産性の良い農地であり、メキシコ湾岸まで南に延びている。

 

アメリカの主要河川

グレートプレーンズはミシシッピ川の西、ロッキー山脈の東にある台地状の大平原である。合衆国農業生産高のかなりの量がこのグレートプレーンズで栽培されている。また、グレートプレーンズを含むその東西のエリアは、別にプレーリーと呼ばれる。

温帯草原地帯であり、西部は短草の、東部は長草の草原となっている。哺乳類のプレーリードッグはこの地域に多く生息することから名づけられた。


グレートプレーンズ


プレーリー

ミシシッピ川岸近くの数百フィート地点から標高が少しずつ高まり、プレーリーの中央部、すなわちグレートプレーンズでは1マイル (1,600 m) 以上の高さになる。このため、このエリアは別名ハイプレーンズとも呼ばれる。

この平原の一般的に浅い起伏が幾つかの場所で遮られており、中でも著名なものはオザーク高原とウォシトー山脈である。これらはアメリカ内陸高地と呼ばれ、ロッキー山脈とアパラチア山脈の間では数少ない山地である。

グレートプレーンズはその西側に南北にそびえるロッキー山脈でばっさりと切られている。ロッキー山脈はアメリカ合衆国西部の大半を占めており、カナダから伸びてきて、メキシコ近くまで達している。

ロッキー山脈は概して他の大きな山地に比べてかなりなだらかな斜面と低い山頂が並んでおり、連続した一体の山地であると言うよりも多くの小さくて切れ切れの山地からなり、その間に盆地や渓谷の大きな繋がりが形成されている。

ロッキー山脈の西は山間地高原(山間地西部とも呼ばれる)であり、広大で乾燥した砂漠地帯である。そのさらに西側にはカリフォルニア州北部からワシントン州にかけて広がる、カスケード山脈とカリフォルニア州東部を南北に走るシエラネバダ山脈がある。 カスケード山脈は大半が断続的な火山からなり、周囲と比べてひときわ高い。

カスケード山脈の南にはさらにこれより高いシエラネバダ山脈があり、岩が多く密な山地である。ここには標高14,505 フィート (4,421 m) で48州の中では最高峰のホイットニー山がある。 ここにも素晴らしい景色の場所があり、ヨセミテやレーニア山国立公園となっている。

シエラネバダ山脈の東側の広大な地域はグレートベースンと呼ばれ、塩原、河川流域、および北から南に走る多くの小山地がある。これらアメリカ合衆国南西部は大半が低地砂漠地帯である。

 

グレートベースン

このグレートベースンの北東部にはコロラド高原と呼ばれる地域があり、ここの景観は世界で最も壮観だと考えられている。中でもグランドキャニオン、アーチーズおよびブライスキャニオンなどの国立公園が見物である。

コロラド高原のさらに北側が、上述のカスケード山脈とロッキー山脈に囲まれその山間地高原という位置関係になる。北のカスケード山脈と南のシエラネバダ山脈の西はカリフォルニア州のセントラルバレーであり、この北のオレゴン州のウィラメットバレーなどにも、一連の川の流域がある。

アメリカ合衆国の大西洋岸は例外的な低地である。海岸に沿っては太平洋岸山地など一連の低い山地が並ぶ。太平洋岸の海岸の大半は、熱帯以外では最も密な植生が拡がり、セコイアのような世界最高の樹高をもつ樹木もみられる。

アメリカにはカナダを挟んで飛び地のアラスカ州がある。国内で最も表情豊かで未開発の景色をみることができる。広く平らなツンドラ平原から高く形の良い山岳が急に立ち上がっている。アラスカ州南部および南西部海岸沖の諸島には多くの火山がある。

ハワイ州は太平洋上でアラスカ州の遙か南にあり、熱帯の火山島が連なり、東アジアやアメリカ合衆国本土からの観光客に人気がある。

 


アメリカ合衆国と人々の200年

■アメリカ合衆国は、元々先住民族であるネイティブ・アメリカンが住んでいた土地である。そこに、16世紀からはヨーロッパからの植民者が、17~19世紀には奴隷貿易によりアフリカからの黒人奴隷が、19世紀からはアジアからの移民が入って来た。

さらにこれらの人種間で混血が起ったため、「人種のるつぼ」と呼ばれてきたが、実際には異人種が融け合って生活する社会が形成されるよりも、むしろ人種毎に入植が行われてきた経緯がある。とくに「ゲットー」と称されるアフリカ系アメリカ人居住地域やチャイナタウンが代表するように、各地に特定人種による居住地ができている。

 

1764年、ヨーロッパ人と会うネイティブ・アメリカン

このような住み分けが起きていることから、近年ではアメリカ合衆国を色々な野菜が入ったサラダに例えて「人種のサラダボウル」と呼ぶことが多くなった。こうした中で人種差別問題、特にヘイトクライムと呼ばれる人種差別主義者による凶悪犯罪が頻繁に発生し、大きな社会問題となっている。

また、南部や中西部を中心にKKKなどの人種差別的な団体が未だ半ば公然と活動している地域も存在する。アフリカ系の死刑執行率がヨーロッパ系に比べて極端に高いなど、裁判制度の不公平性も問題となっており、現在も合法違法を問わず移民が多い。

「合計特殊出生率」とは、人口統計上の指標で、一人の女性が一生に産む子供の平均数を示すものであるが、アメリカの合計特殊出生率は2.0?2.1前後で横ばいに推移しており非常に安定している。先進国の中ではトップクラスであり、とくに移民層の出生率が2.71と高い。

つまり、アメリカの人口は自然増、社会増双方の要因により安定して増加し続けている。老齢化が進む日本とはこの点が大きく異なる。2006年には総人口が3億人を超えたと公式に発表された。

世界でも有数の多民族国家である。2010年の人口統計によると、白人は72.4%(2億2355万人)、アフリカ系(黒人)12.6%(3892万人)、アジア系4.8%(1467万人)、アメリカン・インディアン0.9%(293万人)、太平洋地域の先住民系0.2%(54万人)となっている。

また、2つ以上の人種を祖先とする国民は2.9%、900万人もいる。アメリカは英語圏であるためにイギリス系が多いと思われがちだが、最も多いのはドイツ系(17.1%)であり、 その次がアイルランド系(12.1%)、3番目にイングランド系(9.0%)となっている。このドイツ系、アイルランド系、イギリス系で全人口の4割以上を占めている。

歴代大統領にはイギリス系以外にアイルランド系やドイツ系とオランダ系とギリシャ系が就任しており、そして2009年時点の現職はアフリカ系である。


1985年、ミハイル・ゴルバチョフ・ソ連書記長と会談するロナルド・レーガン米大統領

また、以前のヒスパニック系は14.5%(4190万人)だったが、最近のアメリカの国勢調査による人口統計学では、新たに中南米諸国から移住したヒスパニックが18.5%(4527万人)と増加傾向にある。

これらヒスパニック系はアフリカ系と減少傾向にあるドイツ系を超える人口構成となっており、いまやアメリカのマジョリティになりつつある。人口予測によれば、2050年にはヒスパニックの人口は1億3300万人となり、全人口の3割に達する見込みである。

アメリカの言語は、言うまでもなく英語(アメリカ英語)であるが、アメリカ合衆国には法で定められた公用語はない。しかし、建国の歴史から英語が事実上の国語となっており、英語を話す国民は82.1%に上り、次いで、スペイン語を話す国民が10.7%である。

原住民であるハワイ語やアメリカ・インディアン諸語などを話す国民は少数派である。長年にわたる先住民の同化政策の結果、先住民の言語を話せる人口は非常に少なくなっており、十分な保護政策も取られておらず、多くが消滅の危機に瀕している。

英語を母語としない国民でもたいていは英語を日常的に使用している。高齢者を除き、基本的な英語の知識は市民権取得の必須条件である。アメリカ人の中には英語を連邦の正式な公用語とすることを希望する者が多く、上述のとおり公用語は定められていないが、州レベルでは現在30州が英語を公用語に指定している。

一方、ニューメキシコ、ルイジアナ、メイン、ハワイの4州では行政上英語以外の言語が事実上の第二言語とされている。ハワイ州では州憲法によりハワイ語と英語が公用語とされており、ルイジアナ州とメイン州ではフランス語が行政上の第二言語である。

英語とスペイン語以外の言語が話される州

合衆国加入当時からスペイン(メキシコ)系住民の多いニューメキシコ州は常にスペイン語を非公式な第二公用語としてきた。このスペイン語の話者は、上の統計に示すとおり英語に次いで多く、特にカリフォルニア州、ニューメキシコ州、アリゾナ州、テキサス州などメキシコと隣接する地域に多い。

また、ニューヨークやシカゴなどの大都市では日常的に用いられており、国内でもっとも学習者の多い外国語でもある。 近年増加傾向にある中南米スペイン語諸国からの移民であるヒスパニックには、英語を不自由なく喋ることのできない者も多いため、銀行のATMやスーパーマーケットのセルフレジなどではスペイン語が選択できるようになっている。

今や国民の3割に達しようとしているヒスパニックが話すスペイン語は政治的、経済的、文化的にも非常に大きな影響力を持っている。実際、ヒスパニック人口の多い州では既にスペイン語抜きにはビジネスが成り立たなくなっているなど、事実上の第二公用語となっている。

このスペイン語のような英語以外の言語を州の公用語として認めるかどうかは、単に文化的問題に留まらず州の公文書をその言語で作成する必要があるかどうかという財政的側面があり、選挙でしばしば取り上げられる問題である。

宗教についても見てみよう。プロテスタント58%、カトリック21%、など、キリスト教信仰者の比率は、1990年調査時の86.2%から2003年調査時の79%へと年々減少傾向にある。そのほか、ユダヤ教信者は 1.3%、これ以下なのがイスラム教、仏教、不可知論、無神論、ヒンドゥー教などであり、それぞれ0.5%から0.3%である。

無宗教は13.2%だという。 しかし、やはりアメリカの文化の根幹にあるのはキリスト教である。これまでの大統領が全てキリスト教徒であった。米国憲法修正条項第1条は国教の制定を禁じているが、大統領就任式の際に聖書を手に宣誓を行うなど米国社会ではキリスト教、特にプロテスタントの存在が非常に大きい。

こうしたキリスト教信奉者の中には、宗教的な理由から進化論を否定する者が多く、「公立校で進化論を教えるなら創造科学も合わせて教えるべき」とするキリスト教系宗教団体が州の教育委員会を相手取り論争を起こした例が数件ある。

ギャラップ調査2007年5月の調査によると、アメリカ人は、「神を信じる」と答えた人が86%、「天国を信じる」と答えた人が81%という結果が出た。キリスト教徒が多いことの反映といえる。

セント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂(ニューヨーク)

豊かな国である。他の先進国と比べて、所得税、贈与税、相続税(遺産税)率の累進性やキャピタルゲイン(債券や株式など資産の価格の上昇による利益)への税率が低い。しかしそのこと貧富の差を生んでいる。

2000年を過ぎ、サブプライムローン問題、リーマンショックなどによって失業者を多数生んだが、一方で米国流の資本主義、拝金主義信奉者の中にはこれらの低い税率を利用して利益を蓄えた。国民の間に資産格差が拡大しており、その内部には根本的な欺瞞や問題を数多く抱えている。

例えば、クレジットカード会社による入会審査の基準が緩く、クレジットカードを入手するのが非常に簡単である。その結果、恒常的にカードローンに依存するワーキングプアが増えている。日本と異なり、100ドル札といった高額紙幣の信用が低いため、現金決済よりもクレジットカード決済が好まれる傾向がある。

高度な学歴社会であり、アメリカン・ドリームを達成できるごく少数の個人を除いて職業や収入、社会的地位は学歴に大きく依存する。他方、自治体の教育関係予算は学区の税収と予算案に対する住民投票によって決定され、質の高い教育を提供する教師の確保にも影響するため、公立学校の教育レベルは学区により大きな違いがある。

片や私立学校の入学金・授業料は非常に高額で、入学には親の社会的地位や学歴、家柄、寄付金も選考要件となる。

 
ニューヨークの自由の女神像は、自由、民主主義及び機会の理想の象徴だが……

第二次世界大戦以前より今日まで、世界を席巻する主要な「大衆消費文化」の母国としてより強く認識されている。

大量に供給され短期間に消費される音楽、テレビ番組、ハリウッド映画などの娯楽、自動車、あるいはファストフードやコカ・コーラ等の食品、等々に代表される大量消費文化が、世界のどの国よりも支配的である。 すでに1830年代から、アメリカ合衆国は拝金主義的、物質主義的な風潮が蔓延している、と指摘されていた。

これほど金銭欲が人々の心に大きな場所を占めている国は無い、と他国から非難されるほど拝金主義、物質主義が蔓延しているといわれる。

その一方で、軍や軍需産業による先端技術開発への投資が活発な他、大学などの研究機関が行う各種研究に対しての企業による寄付なども盛んに行われていることから、先端技術や種々の学問においては世界的に見て1、2を争うものが多い。

第二次世界大戦前後、ユダヤ人であるためナチスに迫害を受けたアルベルト・アインシュタイン、あるいは祖国が戦火で荒廃したドイツからやってきたフォン・ブラウンなど、ヨーロッパの科学者や技術者が多数アメリカに移住した。

このため、ため、戦後はアメリカがヨーロッパに取って代わり世界の先端的な科学技術や学問の中心になった面もある。アメリカの大衆・大量消費文化は世界的なトレンドを形成し、また先端的な医療、軍事、航空宇宙、情報・通信(IT)などのテクノロジーは、保有する基礎科学・応用科学の力に支えられて実現しているものである。

現代の科学技術文明を牽引する主要な国家であることは間違いないといえそうである。


アメリカの動物

■ アメリカ合衆国は、熱帯から北極圏にまたがる国土のため、多様な動物相を持つ。400種以上の哺乳類、700種以上の鳥類、500種以上の爬虫両生類、90,000種以上の昆虫が確認されている。

ベーリング海峡でユーラシア大陸と、パナマ地峡で南アメリカ大陸とつながっているため、旧北区と新熱帯区とは同じ種や近縁の種を共有している。

ロッキー山脈は低地の生物にとって遺伝子流動の障害となっており、ロッキー山脈の東と西では異なる種の動植物が分布する。ハワイ諸島とカリフォルニア州は世界的な生物多様性のホットスポットである。

一方、約6,500種の外来種が作為的あるいは非作為的に持ち込まれて帰化しており、少数の侵略的外来種が固有の動植物の生存を脅かし、甚大な経済的被害をもたらしている。 アメリカを含む北アメリカの主な在来種(哺乳類)は以下のとおりである。

▼偶蹄目

●シカ科 :

アカシカ トナカイ ヘラジカ オオツノヒツジ シロイワヤギ ドールシープ  アメリカバイソン クビワペッカリー

アメリカンバイソン

▼食肉目
●ネコ科 : オオヤマネコ オセロット ピューマ ボブキャット
●イヌ科 : アカギツネ オオカミ ギンギツネ コヨーテ ハイイロギツネ ホッキョクギツネ
●アライグマ科・イタチ科 : アライグマ ハナジロハナグマ クズリ シマスカンク ラッコ
●クマ科・アシカ科 : アメリカクロクマ ヒグマ ホッキョクグマ カリフォルニアアシカ

コヨーテ

▼齧歯目 ・ 被甲目 ・ 海牛目 ・ クジラ目
●リス科 ・ ビーバー科 ・ アメリカヤマアラシ科 ・ アルマジロ科 ・ マナティー科 :
アメリカアカリス オグロプレーリードッグ トウブハイイロリス プレーリードッグトウブハイイロリス ムササビアメリカビーバー カナダヤマアラシ  ココノオビアルマジロ アメリカマナティー シロイルカ

プレーリードッグ

なお、アメリカには多種多様な鳥類も生息するが、1782年以後、ハクトウワシが国鳥になっており、国章以外にも多くの省庁や法執行機関の記章に取り入れられている。

ハクトウワシ

では、アメリカ人が飼っているペットはどうだろう。アメリカペット用品協会(APPA)によれば、1988年に最初のペット所有調査を行ったときは、ペットを飼っている世帯の3/4は犬か猫を飼ってい。しかし、現在ではその種類はヘビやキツネ、トカゲ、さらにはゴキブリなどにいたるまで膨大なものとなっているという。ペット用品協会の調査ということもあり、かなり大まかな分類ではあるが、アメリカでよく飼われているペットは以下のとおりである。

  • 第1位:淡水魚 1億5110万匹
  • 第2位:猫 8640万匹
  • 第3位:犬 7800万匹
  • 第4位:鳥類 1620万羽
  • 第5位:小動物 1600万匹
  • 第6位:爬虫類 1300万匹
  • 第7位:海水魚 861万匹
  • 第8位:馬・ロバ 790万頭


最も多く飼われている淡水魚は、「ペット」という認識はない人も多いかもしれないが、日本でも金魚を飼っているという家は多いわけであり、最近はトロピカルフィッシュを飼う家庭も増えているので、うなずける結果といえる。

猫と犬はやはりペットとして人気の高い動物であり、アメリカでは家族同然に付き合う人も多く、旅行に同行させていることも珍しくない。

 

とくに、アメリカの犬や猫は特別な存在として扱われ、人間と同じ地位を与えられているような風潮さえある。特に犬に関してはドッグトレーナーの数も多く、収入も良いとされている。

犬に関する法律もあり、日本では故意にペットを傷つけられてしまった場合でも、“器物損壊罪”という罪になるがアメリカは違う。 犬猫への虐待は、“第二級動物虐待罪”という罪に該当し、Bクラスの軽犯罪に当たり、罪を犯した犯人は2000ドル以下の罰金または6ヶ月以下の懲役に処せられる。

ちなみにアメリカでの軽犯罪はABCの3段階に分かれており、Aが一番重い罪となる。

一方、猫や犬だとエサ代がかかりすぎるという人は鳥や小動物をペットにしている。また意外にファンが多いのがヘビやトカゲといった爬虫類である。

アメリカン・コッカー・スパニエル

ペットとして選ばれる理由は、見るのが好きというもののほかに、犬などのように鳴かないため静かで助かるという理由もあるようである。

淡水魚とは別にランクインしている海水魚は、映画「ファインディング・ニモ」に出てくるカクレクマノミやスズメダイなどである。淡水魚と同様に見た目の美しさなどが人気だが、海水アクアリウムは淡水と比べて維持が難しい。凝り始めるとお金がかかりすぎるという問題もあるが、それだけに趣味の1つとしても人気のジャンルになっている。

このほか、日本ではまずランクインしない気がする馬も多くなっている。馬の場合は「乗ることができる」という実用的な側面もあるが、それだけに普段からトレーニングさせるなどして面倒を見る必要があり、費用の嵩むペットでもある。また、死んだときに飼い主が葬儀などをする割合はランクインしたペットの中で最も多いという。

アメリカン・ショートヘア

ちなみに、上記の数をすべて足すとアメリカの全世帯数を越してしまうが、これは複数飼っている世帯がかなりあるためで、複数種を複数飼っている家ではだいたい4匹から10匹飼っているケースが多いそうである。国土が広く、大きな家を持てる、というのも理由だろう。

なお、日本では犬や猫などのペットを飼うとなるとおそらくペットショップへ行く、という発想になるが、動物愛護の観点からアメリカにはペットショップがほとんど存在せず、自治体やボランティアグループが主体となって活動している「アニマルレスキュー」という組織が各州毎にたくさんある。

まずはアニマルレスキューのウェブサイトで里親を募集している犬猫をチェックし、種類、性別、年齢、性格などから自分のライフスタイルに合ったペットを探す。アメリカには、アニマルレスキューに関わるシェルター(保健所)が5,000ヶ所、そして1,4000近いレスキューグループ(動物愛護団体)が活動していると言われている。

ただ、アメリカ国内で保健所に収容される犬猫の数は、年間約500万頭と日本の20倍近い数字になるといわれ、これだけの数になると殺処分される数もそれなりになっている。ただ、殺処分率は日本の90%より低い50~60%と言われているようである(犬の殺処分率60%、猫70%)。

とはいえ、アメリカでは、収容頭数の集計は州やシェルターに一任されているため、殺処分の正確な統計が出ていない。全米で最大の動物愛護団体、米国動物愛護協会=HSUSの関係者によれば、実際に殺処分される動物の数はそれ以上とも言われている。

こうした背景には、アメリカは、数十年前までは狂犬病発生国であることもあり、シェルターに収容された動物=殺処分という暗黙の了解があったことがある。しかし、わずか数十年で各自治体と動物愛護団体の努力が実を結び、その数を半分にまで。施設によっては殺処分ゼロまで減らす事に成功しているという。

日本の百年

幕末まで

秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して権力を掌握すると江戸に幕府を開き、大坂の役で豊臣氏を滅ぼした。江戸に江戸幕府を開き、慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれた。

 

この間、幕府は、武家諸法度の発布、参勤交代の義務化、有力大名の改易などを通して、諸大名との主従制を確固たるものとし、また朝廷統制を強め、幕府官僚機構を整備した。並行して、キリスト教の制限と貿易の管理強化を進め、社会の安定化に努めた。

社会の安定化に伴って耕地開発の大事業が各地で実施され、倍増した耕地面積は食糧増産と人口増加をもたらした。また、年貢・諸役を村単位で村全体の責任で納めるようにする村請(むらうけ)制度を通じて幕府財政や藩財政を支えるとともに、全国的な流通経済を大きく発展させた。

社会の安定と経済の成長は、都市の発展を支え、17世紀後半の元禄文化に結実したが、18世紀に入り幕府財政が慢性的に悪化すると、徳川吉宗は幕府権力の再強化と財政再建(享保の改革)を推し進めた。その後も体制維持および財政再建の努力(寛政の改革、天保の改革等)は行なわれるが成功はしなかった。

幕末に近づくにつれ、商品経済の発達による社会各層での貧富の拡大し、それに伴う身分制の流動化などを背景に、幕藩体制は次第に動揺していった。19世紀中頃までには、こうした国内の社会矛盾と国外からの圧力(ロシア、イギリス、アメリカ船の接近)により、幕藩体制は限界を迎えていた。

そこへ黒船が来航し、日米和親条約締結による開国を契機として幕府の管理貿易(鎖国)は解かれた。結果として幕府の威信が低下すると、朝廷の権威が増大することになり、幕府は大政奉還により権力の温存を図ったが、倒幕派の薩摩藩、長州藩、土佐藩らとの内戦(戊辰戦争)に敗北後、瓦解した。

 

明治時代

倒幕派の諸藩を中心とする維新政府は明治新政府を樹立した。以後の時代は明治年間、あるいは明治時代と呼ばれる(1868~1912年)。新政府は天皇大権のもと欧米の諸制度を積極的に導入すると、廃藩置県、身分解放、法制整備、国家インフラの整備など明治維新と呼ばれる一連の改革を遂行した。

その過程で諸外国との不平等条約の改正をするため、帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成(殖産興業)と軍事力強化(富国強兵)を国策として推進。日清戦争と日露戦争に勝利したことで国際的地位を確かなものとし列強の一角を占め、台湾統治や韓国併合を行い、領土を拡大した。

文化面では、欧米から新たな学問・芸術・文物が伝来すると、その有様は文明開化と呼ばれ、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。言文一致や変体仮名の整理、標準語の普及が進められ、近代的な日本語が成立した。宗教面では従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、寺請制度が廃止された。

神社は行政組織に組み込まれ、皇室を中心とする国家神道に再編されていった。キリスト教の布教も許されたが、仏教の巻き返しもありキリスト教の勢力はそれほど大きなものにはならなかった。

 

大正時代

1912年(明治45年)7月30日、明治天皇が崩御し、皇太子嘉仁親王が天皇に践祚、大正に改元される。以後の大正年間(1912~ 1926年)は大正時代と呼ばれる。護憲運動を経て大衆の政治参加が進み、政党政治が確立した時期である(大正デモクラシー)。1925年(大正14年)には男子普通選挙が実現した。

一方で政党政治家には大衆の人気取りのため乱暴な対外政策に走る傾向があり、大隈重信政権は1914年(大正3年)の第一次世界大戦には直接国益に関与しないにも関わらず日英同盟を根拠に参戦。同じ連合国である中華民国の袁世凱政権に対華21カ条要求を突きつけ、帝国主義的野望を露骨に示した。

日本は大戦特需により工業生産が激増し、未曾有の好景気となる(大戦景気)。戦争の結果、1919年(大正8年)にパリ講和会議でドイツの山東省権益を獲得したがワシントン会議 (1922年)で返還された。太平洋のドイツ領であった南洋群島は、国際連盟からの委任を受けて統治することとなった。

大戦景気で儲けた財閥は資本の集積・集中を進め巨大コンツェルンを築くが、政府は社会政策の面ではほとんど無策であり、農村から労働者が流入した大都市では貧民窟が形成されるなど貧困が広がった。大戦が終わると大戦中の反動による深刻な不景気に苦しみ、そこに関東大震災が混迷する状況に追い討ちをかけた。

関東大震災

 

昭和時代

1926年(大正15年)12月25日、大正天皇崩御。皇太子裕仁親王が天皇に践祚され、同日昭和に改元された。昭和年間(1926~1989年)は昭和時代と呼ばれる。大正期から続いた不景気に世界恐慌が直撃し、社会不安が増大した。金解禁に失敗した政党政治に代わって軍部が力を持ち、関東軍は独断で満州を占領して満州国を樹立した。

これがアメリカやイギリスの反発を招いて国際連盟を脱退した。その後、第二次上海事変等により中華民国との戦争状態(日中戦争・支那事変)に発展した。日本は枢軸国の一員としてナチス・ドイツ、イタリア王国と三国同盟を結び、真珠湾攻撃でアメリカ合衆国と開戦して第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)に突入した。


真珠湾攻撃

 

原爆投下(長崎)

開戦当初は優勢だった日本軍はアメリカ軍の生産力と通商破壊に圧倒され、各地で敗北を重ねた。戦争末期には主要都市を軒並み戦略爆撃で焼け野原にされ、広島と長崎には原子爆弾を投下されて敗れた。

戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策に基づいた象徴天皇制、国民主権、平和主義を定めた日本国憲法を新たに制定した。「侵略戦争の経済的基盤」となった寄生地主制と財閥は解体された。解体された財閥はコンツェルンとしての形から企業グループとなった。

朝鮮戦争時には占領軍の指令に基づき掃海部隊や港湾労働者を朝鮮半島に送り込むなど韓国支援活動を行った。1952年(昭和27年)にサンフランシスコ平和条約により主権を回復した日本は、急速に戦後復興を進め、財閥は企業グループとして形を変えて復活。冷戦下の西側陣営として日米安全保障条約を締結した。

独立後の日本は西側諸国の中でも特に米国寄りの立場をとったが、日本国憲法第9条を根拠に、軍事力の海外派遣を行わなかった。戦後の日本は、サンフランシスコ平和条約発効直前に発生した韓国による竹島軍事占領を除き諸外国からの軍事的実力行使にさらされることなく、自民党と社会党の保革55年体制のもと、平和の中の繁栄を謳歌した。

1972年(昭和47年)には日中国交正常化と沖縄返還が行われ、戦後処理問題は一区切りがついた。日本のGNPは1966年(昭和41年)にフランスを、1967年(昭和42年)に英国を、1968年(昭和43年)には西ドイツをそれぞれ追い抜き、米国・ソビエト連邦の二大超大国に次ぐ世界第3位に躍進、先進国の仲間入りを果たした(高度経済成長)。

オイルショック後の安定成長期には重化学工業から自動車・電機へと産業の主役が移る産業構造の転換が進み、日本企業の輸出攻勢は貿易摩擦をもたらした。昭和末期、日本はプラザ合意を発端とするバブル景気と呼ばれる好景気に沸いた。歴史学界は戦前・戦中に弾圧されていた思想や研究が解禁され、歴史学の古代史や考古学の研究が大いに進展した。

1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇が崩御。1月8日に平成に改元され、皇太子明仁親王が即位した(今上天皇)。これを受け、元号法に基づき1989年(昭和64年)1月7日に元号法に基づき改元の政令がだされ、「平成元年1月8日」と改元がなされた。元号法によって改元された最初の元号である。

昭和末期から続いたバブル景気が崩壊すると、その後の長期にわたる不況は失われた10年、失われた20年と呼ばれ、経済面での構造改革が進められた。政治面でも冷戦終結と同時に変革を求める声が高まり、自社両党による55年体制が崩壊。非自民連立内閣が成立したが早々に瓦解した。

また、社会不安が高まる中で阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故などの大規模な災害が発生、危機管理に対する意識が高まるきっかけとなった。

21世紀に入り、BRICSなどの新興国が台頭。日本を含む先進国の産業空洞化、国家財政や年金会計における債務超過、通貨危機、中流階級の貧困層への転落などの傾向が顕著になった。

そうした中、従来世界において圧倒的に大きな影響力を持っていた日本の経済的・政治的存在感は弱まりつつある……

 

ジェンテ ジャパンコレクション

Genthe Collection

撮影者のアーノル・ジェンテ(1869~1942年)はドイツ生まれのアメリカ人の写真家。サンフランシスコのチャイナタウンを撮影したシリーズおよび、1906年のサンフランシスコ地震を撮影したものが有名。また、当時の大統領以下の著名人のポートレートなども多数残している。

アメリカで最も早い時期にカラー写真を撮影していた一人としても知られる。1908年(明治41年)に日本を訪問。そのおよそ半年の間に多数の日本人の風俗、風景などともに多くの美術品の写真を残している。

この当時、カメラや写真原版は大変貴重品であり、日本人で保有していた者は、一部の裕福な実業家などに限定される。当然、この当時の日本を撮影したものは少なく、また、これほどの高画質の写真で残っているものはかなり少ない。貴重な写真コレクションといえる。

 

ジェンテのプロフィール

アーノル・ジェンテ(Arnold Genthe 1869年1月8日- 1942年8月9日)はドイツ生まれのアメリカ人写真家です。その73年の生涯における数々の業績の中では、サンフランシスコのチャイナタウンのシリーズおよび、1906年のサンフランシスコ地震を撮影したものが有名です。また、著名な政治家や女優などのポートレートも多数残しています。

自身のセルフポートレート 

生まれたのはベルリン。言語学者であった父の血を受け継いだのか、自らも言語学を学び、25歳のとき、母校のイエナ大学で博士号を取得しました。26歳で渡米。サンフランシスコに移住して家庭教師として働きつつ、写真の撮影技術を学びました。 やがてサンフランシスコの中華街に特に興味を持って入り浸るようになり、とくにこのころ中国人の間に蔓延していたアヘン中毒の状況を撮影するようになりました。

中でも幼い子供たちが麻薬に浸り、苦しむ様子などを熱心に撮影しましたが、被写体である中国人たちのありのままの姿を捉えるために、時には隠し撮りも行いました。 素のままの彼らを撮影したいがゆえに、これらの写真に映り込む「西洋文化」も嫌っていたようで、西洋臭さをなくすため、必要に応じて写真にトリミングや消去を加え、できるだけピュアな中国人の様子を写真に残そうとしました。

こうした写真はおよそ200枚が現存しており、これらの中には1906年のサンフランシスコ大地震の前の中華街を撮影した貴重なものも多数含まれています。 これらのドキュメンタリー写真はその後地元の雑誌に掲載されることになりますが、そこで高い評価を得たために仕事が増え、増えた収入で自らの写真館をオープンすることもできました。

ここでは当初主に市内の裕福な家庭の婦人を撮影していましたが、やがてこうした写真も評判を呼ぶようになるにつれ、著名な有名人からの撮影依頼も増えました。 それらの中には、この当時の有名女優、ナンス・オニールやサラ・ベルナール、詩人のノラ・メイ・フレンチ、作家のジャック・ロンドン(「野性の呼び声」、「白牙」などが有名)なども含まれています。

サンフランシスコ地震では、火災によって彼のスタジオも倒壊しましたが、後年これを再建しています。この地震でも、彼は精力的にその被災状況を撮影して回り、とくに、1906年4月18日に撮影されたサクラメントストリートを見下ろす写真は彼が残したものの中では最も有名なものとして知られています。

1906年4月18日のサンフランシスコ地震でジェンテが撮影した有名な写真 

ジェンテはその後、サンフランシスコからは南に約190kmにあるカーメル・バイ・ザ・シーの街で、芸術コロニーに参加するなどの活動も開始し、この中で彼はこのころまだ珍しいカラー写真での撮影も試みています。

ジェンテがいち早く採用した「オートクローム」はフランスのリュミエール兄弟によって発明されたもので、1907年に写真乾板の形式で一般に販売が開始され、コダックがコダクロームを販売する1930年代までは市場においてはほぼ唯一のカラー写真でした。

オートクローム研究用ヌード写真 

彼の主題はもともと肖像画、芸術的ヌードなどでしたが、このカーメル・バイ・ザ・シーでは風景写真にも取り組みました。周囲の美しい景観で知られるカーメルは、「芸術家や詩人の集まる街」、「カーメルの60%の住居が景観と融合した芸術として建設された」などと新聞に特集記事が組まれるほど芸術家に愛された街でもありました。

芸術家の集まりやすい独特の雰囲気があったようで、ついには町は芸術家だらけとなり、この頃の議会は芸術家達に支配されている、とまで言われていました。

現在に至るまで歴代の市長には俳優、詩人、作家などが度々選出されており、1980年代には俳優で監督のクリント・イーストウッドが市長を務めたことでも知られています。 現在では、愛犬家とペットに優しい街でもあり、多くのホテル、レストラン、商業施設などに犬を連れて利用することができますが、ジェンテはここに新居を構え、その豊かな自然、とりわけ美しい海岸美と植生、夕焼けや砂丘などの魅力的な映像をカラーで残しています。

1911年、42歳になった彼はニューヨークに移住。ここでも主に肖像写真を主題として作家活動を続けました。彼はブザーと呼ばれる猫を飼っており、有名なブロードウェイ女優が彼とともにポートレートとして収まっているものが数多く残っています。

オードリー・マンソン(映画女優)とジェンテの飼猫・ブザー(1915年) 

 

その後彼がニューヨークで撮影した有名人の中には、セオドア・ルーズベルト、ウッドロー・ウィルソンなどの歴代大統領、富豪のジョン・D・ロックフェラー、そしてハリウッドの大女優として知られるグレタ・ガルボなども含まれています。 おそらくはこうしたパトロンに囲まれて、晩年まで裕福な生活をしていたものと思われます。

1942年、73歳のとき、心臓発作で亡くなりましたが、彼の家族に関する詳しい情報は伝えられていません。 彼の性格などそれ以外のプライベートな情報も残されているものはあまりありませんが、彼は日本以外にも、韓国、ギリシャ、ラテンアメリカの文化を高く評価していました。

これらの国を訪れた際にはその文化を尊重することに重きを置き、翻訳者なしでそこに通信するために、中国語、日本語、ギリシャ語とスペイン語をある程度マスターしていたといいます。

日本にやってきたのは、サンフランシスコ地震があった2年後の1908年、39歳のときのことで、この年の後半約6か月間、日本に滞在し、各地で撮影をしたようです。残されている写真から推定されれる訪問地は、関西では神戸、大阪、京都、福山、香川などであり、一方東部では富士山、日光東照宮などを訪れています。

東京市内を撮影したものはなく、現存しないか、どこかに保存されており、いずれどこからか発見されるのかもしれません。北海道にも渡っており、アイヌを撮影した写真も残しています(入手済みのものは、画質が低いため、現時点ではライブラリーに含まれていない)。

なお、上で家族の情報はない、と書きましたが、この日本訪問の際には、妻らしい人物を同伴しており、撮影された写真にはしばしば彼女が登場します。それらの写真には被写体となった他の多くの美女以上に彼女に対する深い愛情が見て取れます。 生涯数多くのポートレートを撮り続けた写真家でしたが、とくに女性に対しては尊敬の念を持って接することを重んじるタイプの人物であったに違いありません。